前回、善行は徳を積むことになり、その結果健康と幸せ、つまり成功をもたらす、一方悪行は徳を損ない、その結果病気と不幸になると述べました。では、なぜ三法印のように、人生の本質は一切苦である、というようなことをブッダは述べたのでしょうか。
まず苦とは何でしょう。
「四苦」とは「生老病死」です。それ以外に4つの苦があるといいます。
愛別離苦(あいべつりく):愛する者と別れなくてはならないこと。
怨憎会苦(おんぞうえく):怨み、憎んでいる人と一緒にいなくてはならないこと。
求不得苦(ぐふとくく):求める物が得られなこと。
五蘊成苦(ごうんじょうく):五蘊(人間の身体と精神)が思うがままにならないこと。
この四つに四苦を加えて、「四苦八苦」と言います。
老いるとか病気とか死が苦しいのは分かりますが、生がどうして苦の中に入っているのでしょう。運、不運に関して、達磨大師は次のようにいっています。
「人は何か悪いことがあるとぎゃふんとなってしまうが、それは間違いである。業の借金を積んで、いつかは払わなくてはならないものを払ったのだと喜ばなくてはならない。一方、何か思わぬよいことがあると有頂天になるが、それも間違いだ。今まで積んでいた善業の貯金を使ったのだから、すぐにまた徳を積む努力をしなくてはならない」と。
楽しいことがあるということは徳を使ったのですから、運が悪くなるということです。一方、苦しいことがあるのは、徳を積んでいるとは言え、今苦しいことには違いがありません。今も苦しく、運も悪くなるのであれば、人間の人生はいつでも苦しいのだ、とも言えるのです。成功というのは今まで貯めた徳を使ったということですから、決して喜んでばかりいてはいけないのです。
一方、苦しいこと、苦労ということは徳を積んでいることになります。
昔、禅を始めたころ、坐禅も読経も苦しくてたまりませんでした。しかし、精神を安定させるために頑張ったのです。当時禅のことを盛んに書いている居士の人がいて、「悟るまでは修行は苦しかったが、悟ったら自分でない自分が後押ししてくれているようで、修行が楽しくなった」と書いていました。私もこの心境にあこがれました。なんとかして悟って、坐禅が楽しく、何時間でもできる日は来ないかと思ったのです。しかし、今はこの考えはまったく間違っていると思っています。苦しいから徳が積めるのです。楽しいのは徳を損ない不幸になるということです。
ですから、私は徳を積むためには苦しいことをしなくてはいけない、楽しい、楽なことは徳を損ない、不幸になると言っています。
曹洞宗の道元禅師が中国の天童山に留学したときのことです。ある夏の暑い日に、高齢の僧が椎茸を干していました。道元はそれを見て、なぜ誰かにやってもらわないのだ、と聞きました。すると、その僧が「彼は我にあらず」と言ったのです。人が徳を積んでも、自分とは関係ないということです。
円覚寺の管長もされ、居士を多く育てた古川堯道老師は「若い時に不陰徳した人の晩年はかならず悪い」と言っておられました。つまり、徳を損なえば苦しみ、不幸になるということです。
私も83歳になり、知り合い、同級生の多くの人生を見てきています。若い時に人の悪口を言ったり、他人の足を引っ張ったりした人の晩年はかならずよくありません。病気になったり、家族がいがみ合って、心の休まる暇もないというのが普通です。
つまり、将来健康で幸せな年月を送りたいと思ったら、徳を積むことです。その中には正直に生きるということが当然含まれているのです。正直であることは危険ではないか、騙されるのではないかという人もいるかと思います。しかし騙される人は欲が多いのです。人は見ています。正直な人を陥れるのはだれでも躊躇されるものです。
自己啓発
【第5回】 徳と成功の関係
photo by Ryan McGuire
2018.8.15
From 高田明和
高田明和(たかだ・あきかず)
浜松医科大学名誉教授/医学博士 |